1965_4_4は、名古屋へ。
撮ったのはコレ、481系しらさぎ編成。
名古屋~北陸の富山間の特急だったか?
151系の交直両用仕様で、この時点では「新車」だった。
2024年の現在でも、名古屋~(北陸)敦賀間の特急は健在だ。
はじめてカメラを手にしたのは、父親から買ってもらった富士フィルムの「ペット35」。小学6年生だった。その1960年代のはじめから撮り貯めた、とっておきの思い出鉄道写真と、今もバリバリ撮り続けている鉄道写真をエピソードと共に紹介します。
最近、 C6120の活躍の場が広がっている。
2024_2_24 撮影の安中駅を発車するC6120▼「SL湯らーりといそべ」。
この春以降では従来の水上、横川だけでなく、渋川、桐生、沼田などへと広がっている。
いずれも、ヘッドマークを掲出しているので、そのデザインに注目。
今回は、地図の「温泉マーク」
1965_3_9の一枚は、大阪市電。
17歳の高校2年生の時。
対向する車内からの一枚だった。
青春のひと時を思い出させる一枚だ。
このあと1969年3月31日限りで全線廃止されたそうです。
1964_3 撮影の「FIAT 1500」。ヘッドライトは横4灯。
今この車が走っていても、時代に合うだろう。
昭和39年の東京オリンピック開催の年だった。
名神高速道路もでき、首都高もでき、クルマ社会の到来だった。
当地では、碓氷峠のアプトが消え、ロクサンの粘着運転が始まっていた。
1963年3月ごろのモータショー。
高崎市の城南球場で開催されてた。
クルマのカタログが欲しくて裏家の親戚にもらって手に入れた記憶がある。
たしか、プリンスのスカイラインだと思った。
当時のカタログは、カラー写真でなくカラーのイラストだった。
▼1.5リッター日産セドリックで、前照灯が立て並びに配置されていたのが特徴。写真的には、ブレが生じているのが、難だが。
それにしても、クルマは憧れの的だった。三菱500やらスバル360やら、トヨタパブリカなどが国民車とされた。
軽三輪では、ダイハツミゼット、マツダK360などがあった。
なお、この写真のセドリックデラックスの価格は、東京渡し現金として1,015,000円だった。今の価格に換算すると、何と「1/10」ぐぐらいか?
鉄道趣味誌「鉄道ファン」を創刊号から見直ししている。
懐かしい写真が何枚も見つけることができた。
その創刊号の一枚が、東北本線御堂~奥中山間で撮られたキハ81系の「はつかり」。
本運転では夜間帯になるので、こうは撮れない構図とのコメントが載っている。
これは「試運転」だからとのことだ。
1967_3_28 撮影の私の一枚がこれ▲。
すでに電化のポールが立ち始め、構図的にはめだっているので、「駄作」の部類だが、懐かしさに重点をおけば、「佳作」なのかも?
ブルドック顔のこのキハは、東北本線で活躍したあと、奥羽本線の「つばさ」だったり、紀勢本線の「くろしお」などで活躍したようです。
1965_1_2 の一枚。
上野駅のEF58だ。
機回しをしている間に撮った一枚です。
反対側のエンドには、「はくつる」のヘッドマークが掲出されているはずです。
このころのゴハチ(EF58)は全盛期でした。
旅客列車のほとんどが、この「ゴハチ」のけん引だったのですから。
鉄道写真の「形式写真」としては、車体の下1/3が影になっている点が難点だ。
2024年1月6日の初撮りは、「開運高尾山初詣群馬号」。
E653系7連が、榛名山を背景に朝の低い太陽の光を受け通過した。
時間通りだったようだ。
今までの臨時列車は、185系で運転されていたが、最近はこの勝田のE653系が使われ始めた。
群馬の風景になじみ始めた一枚になった。